イベント裏話

ボランティアスタッフ・
当社役員によるイベントの舞台裏

 このページでは、企画・運営に携わる当社の役員とボランティアスタッフにより、イベントの舞台裏をコラム形式でご紹介します。21年前、ある一人の鉄道愛好家の情熱が周囲を惹きつけ、鋭い企画力と行動力で70周年イベントを成功へと導きました。今後も彼が遺した想いを引き継ぎ、貴重な鉄道遺産にスポットライトを当て、地域の皆さまはもとより、全国からも多くの皆さまにお越しいただき、お楽しみいただけるイベントを企画してまいります。
▼ヘッドマーク制作記(東京学芸大学鉄道研究部OB 関 健治)
▼岸由一郎氏と津軽鉄道(津軽鉄道顧問 澁谷 房子)
▼最北の私鉄は青空博物館(イベントボランティア 三瓶 嶺良)

ヘッドマーク制作記 関 健治(東京学芸大学鉄道研究部OB)

 東京学芸大学鉄道研究部では、70周年「きしゃっこカーニバル」以降、5年ごとに開催されている周年イベントのたびに、列車に取り付けるヘッドマークを製作してきた。ここでは、これらヘッドマークについて、製作の裏側を振り返ってみようと思う。
 
最初にヘッドマークを製作したのは、2000(平成12)年、きしゃっこカーニバルのときで、DD350形機関車用の円形のものと、ナハフ1200形に取り付ける長方形のものであった。
 
ヘッドマークの材料は、入手しやすさ、加工のしやすさなどからベニヤ板を使った。列車に取り付けることから、走行中に破損して運行に支障しないように、ベニヤ板の裏側は垂木で枠を作り、ある程度の重さと強さをもたせた。枠組みは強度を確保しつつ、使い勝手も考慮し、垂木の交差部分には「ほぞ」を作り、接着剤と釘で固定するなど、試行錯誤した。
 
絵柄は青森県をイメージさせるリンゴをベースとし、その上に「70」を大きく表した。図案化に際しては、当大学のデザインに精通した学生の協力を得た。

 
もう一つ、ナハフ1200形に取り付けるものは、「準急 津軽五所川原」と書かれた、長方形の行先板である。こちらのデザインは、ナハフ1200形が西武鉄道からの譲受車であることから、かつて西武鉄道で使われていた行先板を模したものとした。(なお、この行先板は、きしゃっこカーニバル以降のイベントでも使用された)。
 完成したヘッドマークは厳重に梱包され、当日参加の部員と一緒に、新幹線(当時は盛岡まで)から特急へと乗り継いで現地に運ばれた。
 75周年の際は、70周年でのノウハウを生かした同様の形状とし、ピンクとグリーンの2種類を製作した。きしゃっこカーニバルから5年。当時の学生は卒業してしまったが、休日を利用してOBも現役学生も部室に集合し、ノウハウが伝えられた。

 80周年イベントの際には、後輩たちが機関車用のほかに津軽21形(メロス号)用のヘッドマークも製作した。津軽21形には、もともと「走れメロス」のマークがついており、「鈴虫列車」「合格列車」など、季節によって付け替えているため、同じサイズで作れば、イベント当日に「走れメロス」と差し替えて付けられるというわけである。
 デザインは路線図をモチーフとしたが、複数の色を塗り重ねるには、先に塗った塗料が完全に乾くのを待たなくてはならず、授業の合間に少しずつ塗り、時間と戦いながら製作したと聞いている。

 ヘッドマークを作るに当たって問題となるのは、実車への取り付けである。車両によってボルトの位置が微妙に違っており、現地で実車と合わせる必要があった。そこで、取り付け金具は用意だけしておき、機関区で現物に合わせながら、金具を取り付けてもらった。
 津軽鉄道のイベントは5年に1度だが、学生は4年で卒業してしまう。そのため、現役時代に1度もイベントの年に当たったことのない学生もおり、技術の伝承が難しくなっている。2015年の85周年イベント時は、ヘッドマークのレプリカを作成し、部内の教材用として保存、技術の伝承に取り組んでいる。

岸 由一郎氏について 関 健治(東京学芸大学鉄道研究部OB)

 きしゃっこカーニバルの仕掛け人であり、津軽鉄道と東京学芸大学鉄道研究部のつながりができるきっかけを作ったのは、当部OBの岸由一郎氏(故人)である。
 
岸氏は学生時代に、文化財科学を専攻し、交通地理学のゼミにも参加、大学院進学を経て交通博物館(東京・神田)、のちに鉄道博物館(大宮市)学芸員となった。公私ともに鉄道研究に熱く取り組んだ先輩であった。
 
毎年11月に開催される当大学の学園祭「小金井祭」では、鉄道研究部は研究発表、研究誌製作、模型運転などに取り組んでいるが、岸氏からは「展示は博物館を、研究誌は鉄道雑誌の研究記事を手本にする」と指導された。客観的な視点で真実を正しく伝え、大人も子どもも、全ての皆さまに満足していただける展示や研究発表をしようという思いからだったように思う。
 
岸氏のエピソードの中でも、思い出深いものがある。私が入部したての頃、「ここは鉄道研究会ではありません。研究部です。部活です」と念を押された。使い古した国語辞典と白熱球のスタンドを指さし、「先輩方はあれらを使って記事を書いています」とも説明され、鉄道研究や部の活動への情熱を感じたことを今でも覚えている。
 
岸氏は1997年ごろ、鉄道ピクトリアル誌の特集「東北地方のローカル私鉄」で、津軽鉄道の章を執筆している。津軽鉄道とのご縁は、この辺りから始まったのではないかと思われる。

 
2000年夏ごろ、「津軽鉄道でイベントをやるから、手伝ってみない?」と、部員たちは声をかけられた。きしゃっこカーニバルについてであった。ヘッドマークの製作、当日現地に行けるメンバーの確認などを行い、迎えた当日。最初の会議で、岸氏から「私たちはボランティアスタッフです。一般客ではないので、服装、言動などに十分注意すること。また、勝手な行動は慎み、津軽鉄道の収入に貢献するように」と指導された。
 
こうして始まったきしゃっこカーニバルは、多くの人を集め、地域における津軽鉄道の存在感を高め、会社側にも満足してもらえるものとなった。大成功と言って差し支えないと思う。当時学生だった私としても、実際の鉄道会社での活動は、学ぶことも多く、達成感も大きかった。
 これが礎となり、75周年、80周年…と、先輩から後輩へ、鉄道を愛し、鉄道に貢献する活動が続けられているが、その源は岸氏の思想と活動にある。
 岸氏は2008年6月、前年に廃止されたくりはら田園鉄道(宮城県)の遺産を活用するための地元委員会に出席の折、「岩手・宮城内陸地震」による山津波で命を落とされた。葬儀には鉄道会社や博物館、鉄道文化保存の関係者が多数参列し、早すぎる死を惜しみ、悼む声が口々に寄せられた。
 生前の岸氏は地域鉄道が既に持っているものに光を当て、活用し、地域鉄道と地域そのものを活性化することに情熱を傾けていた。その姿勢に立脚した幅広い活動は、鉄道の活性化や保存車両の維持管理に取り組む多くの人に影響を与えた。岸氏の遺志は、私たちの中に確かに受け継がれ、息づいている。

岸由一郎氏と津軽鉄道 澁谷 房子(津軽鉄道顧問)
※本稿は、岩手・宮城内陸地震追悼行事「あれから10年岸由一郎さんが蒔いた種はいま」(2018年6月2日 くりでんミュージアム)「岸さんのこと、そして鉄道保存のこと…」パネルディスカッション内容を再構成しました。

 最初、津軽鉄道に岸さんがいらしたのが2000(平成12)年で、鉄道友の会青森支部の武田支部長と一緒においでになったんです。その2000年の津軽鉄道がどういう状態だったかと言いますと、1996年に走れメロス号が2両入って、2000年に3両入ったんですね。岸さんにしてみれば、古いキハ24000形やキハ22形はどうなるんだろうとすごい心配していたんだと思うんですよ。そのことも含めて来たのかなと思うんですけど、この年はたまたま70周年に当たる年でして、岸さんから「その汽車たちを使ったイベントができませんか?」と提案を受けたんです。でも、その時津軽鉄道は地元の方々向けに小さなイベントはやっていましたけど、全国規模のイベントはやったことがないし、ノウハウもないしということで、いったん断ったんです。そうしたら岸さんが「全部僕が企画します。スタッフが足りなければ学芸大の後輩を連れてきます。」ということで、最終的に熱意に押されて2000年10月28日・29日に開催したのが、汽車を主役にした「津鉄きしゃっこカーニバル」です。この案内や告知など、すべて岸さんが作ってくれました。初めて1日フリー乗車券を作って、地元の方々にも気軽に乗ってもらえるようにという提案もしてくれました。私もこの時イベント列車に乗ったんですが、沿線にカメラを構えた鉄道ファンの方々がずらっと並んでいるんですよ。あれを見た時に、自分たちはただ古いだけの車両だと思っていたものが、実はすごい価値のある遺産だったんだなと初めて感じました。

 その後も、金木駅舎が取り壊しになって、新しい交流館を含めた駅舎に生まれ変わることになり、2003年5月24日・25日に、今度は古い駅舎が主役になった「さようなら金木の古い駅舎お別れ記念イベント」を企画してくれました。この時、岸さんは貨車に標記が入っていないとかわいそうだとイベント当日の朝、一人早起きして作業していた姿が印象に残ります。三瓶さんが写真に収めてくれていたので、今日お持ちしました。
 
鉄道のことでわからないことがあれば岸さんに聞き、岸さんも仕事の合間を縫って何度も津鉄に遊びに来てくれました。2000年からずっと岸さんとのつながりが続いています。

 私がもう一つ、岸さんの偉大な功績だと思っているのは、鉄道博物館にオハ311という車両を持って行った時のことです。オハ311は、津鉄で使わなくなったあと、スクラップにするには忍びないということで、芦野公園に保存していました。でも、何も活用していなかったので、朽ちてきてお客さまから見栄えが悪いという声もいただくようになって、ブルーシートで包まれた状態で長く置いてありました。それを見た岸さんが、鉄道博物館ができる時にすごく頑張ったんだと思うんです。それでようやく岸さんが上司を連れて視察に来たとき、車内に入れば天井は朽ちて落ちてしまっているし、窓枠は腐っている、車体もボロボロで穴が開いていて、私でさえも「これ本当に持っていけるのか…。」と思ったんですが、粘り強く交渉してこの車両は貴重だから是非残すべきだと言ってくれたそうです。2006年夏、持っていくことが決まった時に、すごく岸さんと喜びました。
 喜びが増したのは、2007年秋に鉄道博物館ができた時に、内覧会に呼ばれたんです。博物館の玄関で岸さんが待っていてくれて、すぐにオハ311の前に連れていってくれました。すごいピカピカ光る車両を見て「このまま津鉄に持っていければいいんだけどな、持って帰れないかな?」と二人で話して笑ったのを覚えています。開館セレモニーでは、岸さんが機関車の汽笛を鳴らす役になって、その時に津軽鉄道の作業帽を被ってくれていまして、津鉄は愛されているなとうれしくなりました。

 
現在の津軽鉄道ですが、先ほどお話しした走れメロス号が、1996年と2000年に入っているので、もう20年以上になりました。重要部検査や全般検査でエンジン部分などのオーバーホールをするのに1000万円以上のお金がかかるので、その費用の捻出がとても難しくて困っています。それと、ストーブ列車ですが、35t機関車の代替えが見つからないので、職員が一生懸命修理しながら使っています。また、検査切れから10年近く、構内に留置されたままになっているナハフ1200形が、今もう錆びてしまってどうしようかという状態で、これを岸さんがみたらきっとどうにかしてくれたのではないか、どこかに伝手があって治してくれたのではないかなと思っています。今日は岸さんの集まりですので、何か伝手が見つかればと期待を持ってまいりました。皆さん、お知恵を貸してください。

最北の私鉄は青空博物館 三瓶 嶺良(イベントボランティア)
※本稿は、月刊鉄道ピクトリアル2011年8月号(電気社研究会 刊)に「最北の私鉄は青空博物館 ―津軽鉄道の“お宝”を守る男たち―」として掲載された記事の一部を、株式会社電気社研究会さまの許可を得て再構成して掲載したものです。本稿の情報は2011年夏現在の取材内容に基づいており、現在とは異なる場合がありますのでご了承ください。

 2010(平成22)年8月28日から29日にかけて、津軽鉄道では開業80周年記念イベント「津鉄タイムマシンに乗って、懐かしのあの頃にタイムスリップ」が行われた。懐かしの鉄道情景が次々に展開され、この2日間の乗車人数は通常の約2倍となる1,400名にも達した。沿線の人々はもとより、大都市圏からも多くの鉄道愛好家が訪れ、市内の宿泊施設が軒並み満室となるなど、地域にも波及する大きな成果を残した。
 イベント成功の鍵を握ったのが、津軽鉄道に現役を維持したまま残されている、博物館の収蔵品に相応しい“お宝”たちの数々だった。これは懐かしさや素朴さを求めて全国からやってくる観光客に応えるため、鉄道の原風景を守る意思と努力が実を結んだ結果である。

最果てのローカル私鉄が一躍全国区に

 津軽鉄道を全国区に押し上げた存在としてあまりにも有名なストーブ列車。牽引機のDD350形に暖房供給設備が付いていないことから、車内に設置されたダルマストーブが今日まで使用され続けている。
 古くから鉄道ファンには知られる存在であったが、朝の輸送力確保や貨客混合のために運転されていた客車列車は、言わば必要に迫られてダルマストーブを設置して運転していただけで、当時はこれがのちに津軽鉄道を代表する財産になるとは思いもよらなかったであろう。

 会社自らが観光の目玉として意識し始めた時期は、社内でも正確に覚えている職員がいなかったが、旧来のオハ31形から現在のオハフ33形・オハ46形に置き換えた1983(昭和58)年頃には、すでに少ないながら個人の観光客が訪れていたという。翌年発表された吉幾三作曲・作詞、千昌夫歌唱「津軽平野」ではストーブ列車が歌詞に登場しており、ある程度知名度を得ていたことが分かる。現在も使用されている「ストーブ列車」ヘッドマークの登場は1986年頃のことだ。
 大きな転機は1988(昭和63)年1月。沿線の金木町で「雪国地吹雪体験ツアー」が始まり、ツアーへの組込によって団体客の取り込みに成功、これが数々のマスコミで紹介され、その知名度が決定的なものとなっていったという。同年11月1日改正のダイヤでは朝夕の通学列車のほか、観光向けに日中1往復の客車列車が設定されている。
 こうして観光ルートに組み込まれて20年あまり、2010(平成22)年冬シーズンのストーブ列車への乗車人員は2万8,286名(ストーブ列車券発売実績)、同年度の全体での年間乗車人員が31万3,724名であるから、わずか4カ月、一日2往復走るだけのストーブ列車がいかに津軽鉄道の経営を支えているかがわかる。

“一度潰したものは元には戻せない”

 津軽鉄道では、ストーブ列車の他にも博物館級の貴重な車両や鉄道施設を数多く守り続けている。ストーブ列車で全国区になって以来、“ここに古里がある”をキャッチコピーに、どこか懐かしい、ホッとできる雰囲気を演出してきたが、社内では当時ストーブ列車以外の車両はただの「古い車両」という認識で、腕木式信号機やタブレットなども意図して残していたものではなかったようだ。
 転機を迎えたのは2000(平成12)年10月に行われた開業70周年記念イベント「津鉄きしゃっこカーニバル」だった。故・岸由一郎氏が同社に提案、企画して実現したこのイベントでは、ストーブ列車以外の古い車両たちにもスポットライトが当てられ、全国から沢山の鉄道愛好家が訪れる姿を目の当たりにしたことは、社内に大きなインパクトを残した。
 次の転機は、澤田長二郎氏が津軽鉄道の社長に就任した2004(平成16)年のこと。東京の大手商社を勤め上げ、故郷の五所川原へ戻り社長を引き受けた澤田社長の眼には、津軽鉄道に残る古い車両や施設は、まさに上京した頃の雰囲気そのままで、レトロブームとは一線を画したホンモノの古さがさまざまな可能性を秘める財産として映ったそうだ。
 とはいえ古いものを残してゆくには莫大の費用が必要で、路線自体の存廃も議論される厳しい状況の中では、なかなか活用してゆく余裕はなかった。ただ澤田社長の「このまま廃車にするのは簡単だが、一度潰したものは元には戻せない」との想いから、少ない予算をやりくりしながら、なんとか現場に守ってもらっているという。
 もともとストーブ列車をきっかけに、社内に古いものを大切にしてゆく風土が醸成されていたことも幸いし、職員一丸となって鉄道の原風景の維持が続けられている。

津軽鉄道は“タイムマシン”

 2010年8月に行われた前述の開業80周年イベントでは、舘山広一運輸課長の呼びかけで、全国の鉄道愛好家からなるボランティアスタッフとともに企画が進められた。津軽鉄道全体をタイムマシンに見立て、“お宝”たちを主役に当てることになったが、貨車はちょうど検査期限を迎え、別の車両の入場も重なっていたことから、イベントまでに検査を完了するのは困難であった。そこで舘山課長は、少しでも手が空くと貨車を留置していた津軽飯詰駅へ通い、分解から組立、塗装など検査のほとんどを一人で行い、執念でイベントに間に合わせた。
 イベント1日目の夜、ストーブ列車の編成で運行された夜汽車は津軽五所川原駅を発車した時点で乗車人数は座席定員を超える167名を数え、さながら帰省列車の様相を呈する盛況ぶりだった。機関車に添乗していた舘山課長は、真っ暗闇な車窓に浮かぶ大きな月光を見ながら、これまで守ってきた鉄路と車両を目当てに多くの人々が訪れ、喜ぶ姿に大きな達成感と手応えを感じたという。
 筆者もボランティアスタッフとして夜汽車に乗車していたが、この時の澤田社長以下、職員の自信に満ちあふれた顔は忘れられない。


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