2010(平成22)年8月28日から29日にかけて、津軽鉄道では開業80周年記念イベント「津鉄タイムマシンに乗って、懐かしのあの頃にタイムスリップ」が行われた。懐かしの鉄道情景が次々に展開され、この2日間の乗車人数は通常の約2倍となる1,400名にも達した。沿線の人々はもとより、大都市圏からも多くの鉄道愛好家が訪れ、市内の宿泊施設が軒並み満室となるなど、地域にも波及する大きな成果を残した。
イベント成功の鍵を握ったのが、津軽鉄道に現役を維持したまま残されている、博物館の収蔵品に相応しい“お宝”たちの数々だった。これは懐かしさや素朴さを求めて全国からやってくる観光客に応えるため、鉄道の原風景を守る意思と努力が実を結んだ結果である。
最果てのローカル私鉄が一躍全国区に
津軽鉄道を全国区に押し上げた存在としてあまりにも有名なストーブ列車。牽引機のDD350形に暖房供給設備が付いていないことから、車内に設置されたダルマストーブが今日まで使用され続けている。
古くから鉄道ファンには知られる存在であったが、朝の輸送力確保や貨客混合のために運転されていた客車列車は、言わば必要に迫られてダルマストーブを設置して運転していただけで、当時はこれがのちに津軽鉄道を代表する財産になるとは思いもよらなかったであろう。
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会社自らが観光の目玉として意識し始めた時期は、社内でも正確に覚えている職員がいなかったが、旧来のオハ31形から現在のオハフ33形・オハ46形に置き換えた1983(昭和58)年頃には、すでに少ないながら個人の観光客が訪れていたという。翌年発表された吉幾三作曲・作詞、千昌夫歌唱「津軽平野」ではストーブ列車が歌詞に登場しており、ある程度知名度を得ていたことが分かる。現在も使用されている「ストーブ列車」ヘッドマークの登場は1986年頃のことだ。
大きな転機は1988(昭和63)年1月。沿線の金木町で「雪国地吹雪体験ツアー」が始まり、ツアーへの組込によって団体客の取り込みに成功、これが数々のマスコミで紹介され、その知名度が決定的なものとなっていったという。同年11月1日改正のダイヤでは朝夕の通学列車のほか、観光向けに日中1往復の客車列車が設定されている。
こうして観光ルートに組み込まれて20年あまり、2010(平成22)年冬シーズンのストーブ列車への乗車人員は2万8,286名(ストーブ列車券発売実績)、同年度の全体での年間乗車人員が31万3,724名であるから、わずか4カ月、一日2往復走るだけのストーブ列車がいかに津軽鉄道の経営を支えているかがわかる。
“一度潰したものは元には戻せない”
津軽鉄道では、ストーブ列車の他にも博物館級の貴重な車両や鉄道施設を数多く守り続けている。ストーブ列車で全国区になって以来、“ここに古里がある”をキャッチコピーに、どこか懐かしい、ホッとできる雰囲気を演出してきたが、社内では当時ストーブ列車以外の車両はただの「古い車両」という認識で、腕木式信号機やタブレットなども意図して残していたものではなかったようだ。
転機を迎えたのは2000(平成12)年10月に行われた開業70周年記念イベント「津鉄きしゃっこカーニバル」だった。故・岸由一郎氏が同社に提案、企画して実現したこのイベントでは、ストーブ列車以外の古い車両たちにもスポットライトが当てられ、全国から沢山の鉄道愛好家が訪れる姿を目の当たりにしたことは、社内に大きなインパクトを残した。
次の転機は、澤田長二郎氏が津軽鉄道の社長に就任した2004(平成16)年のこと。東京の大手商社を勤め上げ、故郷の五所川原へ戻り社長を引き受けた澤田社長の眼には、津軽鉄道に残る古い車両や施設は、まさに上京した頃の雰囲気そのままで、レトロブームとは一線を画したホンモノの古さがさまざまな可能性を秘める財産として映ったそうだ。
とはいえ古いものを残してゆくには莫大の費用が必要で、路線自体の存廃も議論される厳しい状況の中では、なかなか活用してゆく余裕はなかった。ただ澤田社長の「このまま廃車にするのは簡単だが、一度潰したものは元には戻せない」との想いから、少ない予算をやりくりしながら、なんとか現場に守ってもらっているという。
もともとストーブ列車をきっかけに、社内に古いものを大切にしてゆく風土が醸成されていたことも幸いし、職員一丸となって鉄道の原風景の維持が続けられている。
津軽鉄道は“タイムマシン”
2010年8月に行われた前述の開業80周年イベントでは、舘山広一運輸課長の呼びかけで、全国の鉄道愛好家からなるボランティアスタッフとともに企画が進められた。津軽鉄道全体をタイムマシンに見立て、“お宝”たちを主役に当てることになったが、貨車はちょうど検査期限を迎え、別の車両の入場も重なっていたことから、イベントまでに検査を完了するのは困難であった。そこで舘山課長は、少しでも手が空くと貨車を留置していた津軽飯詰駅へ通い、分解から組立、塗装など検査のほとんどを一人で行い、執念でイベントに間に合わせた。
イベント1日目の夜、ストーブ列車の編成で運行された夜汽車は津軽五所川原駅を発車した時点で乗車人数は座席定員を超える167名を数え、さながら帰省列車の様相を呈する盛況ぶりだった。機関車に添乗していた舘山課長は、真っ暗闇な車窓に浮かぶ大きな月光を見ながら、これまで守ってきた鉄路と車両を目当てに多くの人々が訪れ、喜ぶ姿に大きな達成感と手応えを感じたという。
筆者もボランティアスタッフとして夜汽車に乗車していたが、この時の澤田社長以下、職員の自信に満ちあふれた顔は忘れられない。 |